2014年7月16日水曜日

True English 本当の英語のはなし

ココは下品な言葉が満載なので、
基本スルーでお願いします。(苦笑)







母国語が英語である、イギリス人とオーストラリア人が話していてぜんぜん通じずにお互いが、
「イングリッシュ(英語)で話してくれ!」と怒った。という実話を聞きました。

日本人の概念からすると英語は世界共通であるというイメージがあるんですが、
じつはコレがぜんぜん違います。(爆笑)

大まかに分けて、クイーン・イングリッシュ(英国語)、
アメリカン・イングリッシュ(米語)、
オージー・イングリッシュ(オーストラリア英語)の3つ。

オーストラリア国内でも、地方によって使う言葉は変わります。
日本は狭いですが、各地方に訛りはありますから、このへんは理解できますね。
英語が入って来たのは、ここ200年ほどですから、
長い歴史を持つ日本ほどには、言葉は分かれてはいません。

では、どれくらい違うのかというと、アメリカ人がオーストラリアに来たとき、
最初はなに言ってんだか、ぜんぜんわかんなかったよぉ。というくらい。(笑)

世界を相手に仕事をしているペーターも言ってました。
”Yoshi、僕は世界中からオファーがくるんだけど、
イングリッシュ(イギリス人)とアメリカン(アメリカ人)と、オージー(オーストラリア人)では、話す英語がぜんぜん違って、わかんないんだよぉ。”そう言ってました。(笑)

言葉の表現の違いはもちろん、スラング(訛り)もあって、少し勉強したくらいでは、ぜんぜんわかんないです。(爆笑)
私はよく聞かれます。”あなたは英語は喋れるんですか?”

いつも言う返答は、”いえ、ほとんど話せません。”(苦笑)


でもね、ここまで旅日記を見てもらって理解できると思うんですが、旅したり、買い物する位では、電子辞書程度があれば、どうにでもなります。(爆笑)


最低限必要な単語力、例えばエンピツはペンシルpencilとか、手はハンドhandとか、タバコはシガレットcigarette、~したい。はウォント トゥーwant to~ 買いたい。はウォント トゥー バイwant to buy~ 探してる。はルッキング フォーlooking for~ とか、そういう単語を覚えておくのは必要です。トラベル英会話の本くらい。
それに、釣りには釣りの専門用語、クルマにはその専門用語、ましてや、働くとなると、より高度なビジネス語学力は必要ですから、
それを知っていなければ、意思をキャッチボールする、会話は成立しませんし、仕事にもなりませんから、それぞれ覚える言葉はたくさんあります。

でも、怖がることはなにもありません。

言葉というのは、意思や主張を相手に伝達する道具や手段ですし、
会話や討論というのは、意思や主張をキャッチボールしながらその疎通をはかる。と、いう事ですから、意思や主張がなければ会話は成立しません。

それに、このブログのどこかで話しましたが、日本には古来の武士道からくる、
”ガマンの美学”、”無言の美徳”、”「はしたない」という感覚”もあります。
(台湾とか韓国とか、儒教の入ってる国の人とは、感覚は似てると感じます。)
けれども、ここオーストラリアにはこういう思想の文化は無く、
"声が小さい=自分の言ってることに自信がないヤツ。”または、
”無言=考えや意思がねえヤツ” さらには、
”言えねえような、ロクでもねえことを考えているヤツ。”
というふうに判断されます。

ですから、自分の意見、主張を表現しない事は、とても不利に作用します。
男女とも、シッカリと自分の意思を主張する。これが当たり前です。(もちろん、よく喋る人も、シャイな人もいます。)

いま、私が強く必要だなと思うのは、自分はなにをどういう風に捉えて、感じ、考えるのか。という思考とか意思。
私は長年、日本語で育ちましたから、当然ながら、まず日本語で考えます。
ですから、いまさら子供のように”知らないうちに英語が喋れるようになってた。”という展開は、ムリでしょう。(笑)
そういう、じぶん自身の感性や個性を、どれくらい日本語で話せる、表現できるのか。ということ。

だから、意外と必要なのは、母国語である日本語の、国語であると私は考えます。

人間は、言語以外、目や、ボディ・ランゲージでも会話ができます。

”聞いてれば英語が話せるようになる。”という教材を、出発前に一年間、こみっちり聞き続けましたが、
結論から言うと、私の場合は会話できる程にはなりませんでした。
(ですがヒアリング(聞き耳)は劇的に成長したので、相手が言ってる事はかなり聞き取れるようになったから、コミュニケーション能力は上がったんだけどね)
私は各地で、旅行者やワーキング・ホリデーの若者たちと交流する機会がありました。
少し仲良くなると、”その事について、私はこんな風に思うよ。どう思う?”とか、そういう会話になってゆきます。
最初は目が青いとか、ブロンドとか、白人とか、褐色の肌の人とか、
やっぱり圧倒されるんですよ。接するのに慣れてないから。
なんとなく、声が小いちゃくなっちゃって、
自信がないから伏目がちになっちゃって。(笑)


でもね、少し慣れてくると、その人たちも、日本の学校で教えるような英語なんか喋ってないことがわかってきます。
もちろん、彼らも英語が母国語じゃないから、例えばフランス人は”ゴニョグニュゴニョ”みたいなフランス語訛りの英語。(爆笑)

ネイティブ・スピーカーだって、文法どおりになんか喋ってない。
私たちだって日常の会話で、国語のテキストみたいな言葉、話してないじゃないですか。(笑)
日本に住んでる、外国から来た人も同じですね。発音なんか上手でなくても、私たちと会話できてる。

それに、ここオーストラリアは移民の国ですし、外国からの旅行者も多いから、
みんなが英語をうまく話せない人に対面する事に慣れてる。
そういう事もあって、流暢に話せないことは、カッコ悪い事じゃないんです。
いま、私が本当に必要だな。と思うのは、
デカイ声、相手の目を見る、それに情熱と勢い。

コレらで結構イケます。

パントマイムなんか出来れば完璧で、世界一周だって可能でしょう。(ちょっと疲れるだろうけどね・爆笑)





ニュージーランド人のミッシェルと旅していたとき、彼女とは、
”Yoshiが移動手段と食べ物を提供してくれる代わりに、私は本当の英語を教えるわ。
私は日本で一年半、自分のイングリッシュ・スクールを持っていたのよ。”
 ”ああ、いいよ。よろしく頼むよ。” そういう契約を交わしました。
(何度も同じようなこと聞くと、面倒がって教えてくんなかったけどね・笑)


それで、私は若い頃に来たときオージーに、本当の英語だと言われ教えてもらった言葉を、彼女に伝えました。

それは、Shitシット(クソ)、Cockコック(チンコ)、Nippleニップル(乳首)、Fuck Youファッキュー(英語で一番汚いとされる言葉)。

ミッシェルは、顔をゆがめて本気で、”その言葉は二度と使わないで!”と怒りました。
(この人出会った数日はやたらと怒ってたんだよね・笑)

用が足したくなって、I go to shit.(私クソしてきます。) そう言うと、また怒る。
恥ずかしながら、私は他に単語を知らなかったので、彼女はなぜ怒ってるのかがわかんなかった。(笑)

でも、Oh,Shit!(クソッ!)とか、Bull Shit!(ブルシット、牛のクソ!・もっと下品)とかは、くだけた仲間うちの会話では、普通に使われてます。

それまでは知らなかったんですが、上品な会話では、
オシッコはNumber1(ナンバーワン)、大きいほうはNumber2(ナンバーツー)と言います。
(コレはお店のトイレにも書いてあったので、間違いない)

まことにローカルな話で恐縮なんですが、大昔、私の地元ではNumber1という名前の暴走族グループがありました。
今考えると、その暴走族の名前は「おシッコ」だったんですね。(笑)
ネーミングも気をつけないといけません。



Fuckという単語も、日常で使われてます。
Fuck'n Good!(ファッケン グッド!・すっげえイイ!)というふうに使われますが、ちょっと乱暴なことば遣いです。


広いキャラバン・パークで、私は洗濯がしたいのだけど、ランドリーの場所がわからなくって、
青年たちのグループに場所を尋ねた事がありました。
シチュエーションとしては、午後遅い時間で、みなさんお酒をたくさん召し上がって、出来上がってるころ。(笑)

”ああ、ランドリーか?教えてやるよ!ココはFuck'n(ファッケン)広いから、わかりにくいんだ!こっち来いよ!”

”あそこにファッケン白い車が見えるだろ?!”

”その横をファッケン真っ直ぐ行くと、フアァッケン木が左側にあるんだ!”

”そのファッケン木と木の間を、ファッケンまっすぐいくと、フアァッケン・ランドリーがあるぜ!”

・・・このぐらい普通に使われてます。(爆笑)



Fuck You! Mother Fucker!(このクソ野郎!テメエ、母ちゃんとヤッてろ!)

(※注:コレを読んでるあなたは、ぜったい使っちゃダメよ・笑)



これらは、英語の中でも、最も汚い言葉のひとつで、私がこれを聞いたとき、周りの人々もあたりを見回していました。

でも、これを聞いたシチュエーションは、アボリジナル・コミュニティでの、じつは小学校3年くらいの、こども同士のケンカのやりとりですw



学校ではもちろんのこと、「本当の英語を教えます。」なんて看板を掲げている英会話教室なんかでも、こういう災いを呼び寄せる、忌み嫌われる言葉を教えることは、普通はないでしょう。


けれども、「学校や英会話教室では、決して教えないんだけど、現地の日常生活で普通に使われてる英語。」


それらを教える教職にある人には、少なからずの義務や責任はあるように、私は思います。



本当の英語。って、いったいどういう英語なんでしょうか。

2014年6月19日木曜日

ホワイトシャークⅣ号のはなし  

私の車には名前があります。ホワイトシャーク4号。
我が家では代々、白い車はホワイトシャーク号を襲名します。その四代目。
青ならブルーサンダー号。
深い意味はありません。これは代々受け継がれる家訓のようなもの。(笑)

以下は、こういうふざけた内容なので、基本スルーでお願いします(笑)





「この車はアナタの旅にはベストチョイスだね。どうしてこの車を選んだの?」

「なぜオーストラリアで簡単に手に入る車を、高いコストをかけて日本から運んだんだい?」
道中、どこにいっても聞かれました。


ニュージーランド人のミッシェルと旅をしていたとき、彼女にも同じことや、なぜアウトバックを旅しているのか?と聞かれました。
彼女は日本語も少し理解できたので、9日間一緒にいましたし、ドライブしながら長話ができました。
その時の話をしましょう。





ああ、この車を選んだ理由かい?みんな聞くよ。いいよ。話せるよ。
私が若者だった頃からだ。ストーリーは長いけど、準備はいいかい?(ニヤリ)
今は時間がたくさんあるから、最初から話せるよ。

私はモーターバイクが大好きだった。ハイティーンのころさ。
そのバイクでソロや、仲間とツーリングをした。楽しかったよ。

あるとき、日本の広さを自分で確かめたくなった。1987年、21歳だった。
私はTOKYOの隣に住んでるけど、行ったことがあったのは、電車で南はOSAKA、北はAOMORIまでだった。

私は大好きなKAWASAKIと一緒に、遠くにゆきたかった。でも怖かったんだ。
バイクで遠くなんて、行ったことがなかったからね。テントで眠った事もなかった。

ミッシェルはHAKATAに住んでた。って言ったよね。
私は、KYUSYUを目指した。2週間の予定だった。遠くなんて行ったことがなかったし、それで十分だと考えたんだ。
お金がなかったから、宿はユース・ホステルを使ったんだけど、私と同じ、たくさんのソロ・ツーリストに出会った。
その中には、今でもコンタクトを取っている人たちがいるよ。
みんなの話を聞くうち、ほかの場所にも興味を持った。日本ではそんな旅をするのは難しいし、せっかくだから。と場所をつないでいるうちに、6ヶ月の間、日本中を走り回っていた。楽しかったよ。

そこで出会った人に「HOKKAIDOで、ホライズン(地平線)が見れるらしいよ。」そんな話を聞いた。
私は見渡す限りの地平線を、どうしても見たくなり、HOKKAIDOに行った。
HOKKAIDOには日本で一番長い、ストレート・ウエイ(直線道路)があるんだ。20kmくらい。
私は期待して走った。日本で一番長い直線なんだから。

でもね、ゆっくり走っても20分くらいで走りきってしまった。
そして、地平線が見れると聞いた場所で私が見たのは、水平線と山の稜線だった。
これは地平線ではない。私はそう感じたんだ。


岬のライトハウス(灯台)のビームってね、40km届くんだよ。地球は丸いから、ビームはそれ以上届かないんだ。
だから、40km先まで見通せる平らなところで、木とか邪魔なものがない所からなら、ホライズンは見える。
それが一周なら360°のホライズンだ。でもね、日本にそういう場所はなかった。

「日本って狭いな。」そう思ったよ。


では、見渡す限りの地平線は、どこへ行ったら見れるんだろう?
世界って、どの位広いんだろう? と、自分の目で確かめたくなった。それが外国に目を向けるきっかけだったんだ。

外国に行きたくて、3年間たくさん働いて、資金を作った。
地球の大きさを確かめられるところなら、どこでもよかった。大好きなバイクで、どこまでも走りたかったんだ。

候補はいくつかあった。
シルクロード、アフリカのサハラ砂漠、アラスカから南アメリカに続く,パンアメリカン・ハイウエイ。そして、オーストラリアのアウトバックだった。
私はオーストラリアをチョイスした。赤い大地に、一番興味を持ったんだ。
それに、初めて外国に出る私には、行きやすかった。

そして1990年1月に出発した。飛行機に乗ったのは、生まれて初めてだったよ。
飛行機で、私は読めない英語のイミグレーション・カードを隣のシートの人に聞きながら書いて、汗びっしょりさ。
期待と不安で眠れなかった。その晩泊まる宿も、決めてないんだから。

シドニーの空港に着いて、到着ロビーに出たら、金色の人波に驚いたよ。
ブロンドヘアーの人が多いからね。日本には無い眺めだった。
肩が当たって、”Sorry!”なんてイングリッシュであやまられてさ。
圧倒されて、しばらくベンチに座って、立てなかったよ。

英語かい?今だってしゃべれないさ。(笑)


私はなにも知らなかったし、できなかった。


でも、"I wanna go to Outback trip !"(おれはアウトバックの旅をしたいんだ!)”と、目標を持っていた。
そのパッション(情熱)だけが、私のすべてだったよ。


オーストラリアは私にとって、グッドチョイスだった。
大平原を横断している時、ダート・ロードでも夜明けから、西に向かって、日暮れまで走ると、500km走れる。そうするとね、サンセットが毎日、30分ずつ延びるのさ。
東に向かうとサンライズが、30分ずつ早くなる。

そうなんだ。私は日本には無い、タイム・ディファレンス(時差)を体験したんだ。
そのとき私は、心から感じたんだ。「ああ、地球って広いんだな。丸くて回ってるんだな。」


ホライズンかい? 見たよ。遠くにオルガが見えてね。360°だ。エアーズロックの頂上でさ。
いまでも忘れない。私にはショックな経験だったよ。


1990年に旅した時はね、モーター・バイクだったんだ。シドニーでHONDAを買い、砂漠のストック・ルートを縦断するために、ノー・サプライで1300kmを走れるように改造して出発した。
それぐらい走れるようにしておけば、世界一周だって出来ると思ってた。

でもね、私の予想を超えたハード・コンディションや、自分の経験、知識、装備が足りなくって全部のタスクはコンプリート(完了)できなかったんだ。

インターネットもなかったしね。持っていた情報は、日本で買える地図とガイドブック、雑誌の切り抜きだけだった。 そこに、正確なアウトバックの情報はなかった。
無給油で走る事が必要な区間は、じつは2000kmだったんだ。

オーストラリアは暑いから、アウトドア・シーズンは冬だよね。
バイクや車でオーストラリア北部、ヨーク半島やガルフ地方、アーネム・ランド、キンバリーを旅するとき、夏(雨季)は選んじゃいけない事は、誰だって知ってる。

砂漠だって夏に入る時は、スペシャルな装備と信頼できる仲間が、特に必要だ。
人間にとっては暑すぎるし、道はフルードして何ヶ月も通れないからね。

そんな事も知らずに、夏に来てしまった。
1990
アウトバックの中では、いつも怖くてたまらなかった。
知識や経験、装備が乏しいとき、対処できないことが起きた時のことを考えると、怖いよね?
私は、ハードなグレイト・アウトバック・トリップをするには、幼稚で未熟だったのさ。

走りながらチャレンジ・ステージの入り口が近づいてくると、どんどん不安が大きくなる。
(・・・ここで、日本人も外国の人も、遭難してたくさん死んでるんだ。・・・)
そして、長いストックルートの入り口で、どうしても入ってゆけない時が何度かあった。
おかしいいよね。そのためにわざわざ日本から来てるのに。


私は自分の中の恐怖に、耐えられなくて、負けたんだ。そして、そこから逃げたんだ。


私は帰国後もしばらくの間、弱虫の自分が嫌いだった。でもその事に、今は感謝してるよ。
体はノー・ダメージで帰ったから、またチャレンジしに来れたしね。

10年くらい後、だれか探検家の本を読んで私は救われたよ。こう書いてあったんだ。
「探検家はみな慎重で臆病だ。さもなければ遭難して、帰ってこれない。それがリーダーなら、仲間は全滅する。」

ホラ、私のクルマのボディに書いてあるだろ?
Challenge to unmatured my self 20 yrs ago~(20年前の未熟な自分への挑戦)
いや、日本では、私は車にシールは貼らないよ。今回は私のスペシャル・ステージだから、特別だ。

私は臆病で、ズルくて、おまけに逃げ足が速いからね。
自分に都合が悪い時には、言い訳をして、チキンより早く逃げるのさ。(笑)

だからね、逃げたいと思う、つらく苦しい時に見えるように、ここに書いてある。
いま何をするために、ここにいるのか。って考えるためさ。自分だけ読めればいいから、読みにくいフォントで書いてもらったよ。

いや、3ヵ月旅してるけど、今回はまだ怖いと思ったことはないよ。
ゆきたい所にはひとりで、どこにでも入るよ。トラブルも全てが楽しい。
必要な装備や知識や経験が増えてるからだと思うよ。
(この時はまだ、キャニング・ストック・ルートに入る前だった・滝汗)

その時のセカンド・ステージが今回の旅なんだけど、
私の旅のテーマは”ひとりで、1台で、どこまでできるのか”
このテーマは、若い頃から変わってない。

人類がさ、知恵と力を合わせれば、地球のどこにだってゆける。
寒い所、暑い所、高い所、地面の下、月や宇宙にだってゆける。
いま生身の人間がゆけない所は、深い海の底くらいじゃないかな?

でもね、”自分ひとりで”、という条件では、出来ることは、とてもとても小さい。
では、自分はどんな事がどれ位できるんだろう。若者だったころ、そこに興味があった。
今は家族がある。私は家族は自分の一部だと考えるから、希望するなら同行を許すよ。


1990年のアウトバック・トリップから帰った後、出来なかった事を完了するために、20年後にリトライ(再挑戦)する事にした。

私はリッチマンじゃないし、仕事、結婚、ベイビー、すぐに次の旅には出発できなかった。
次に備える、長い時間が必要だったんだ。

こういう場合、日本人はよくリベンジ(復讐)という言葉を使うけど、私はこの言葉は好きじゃない。オーストラリアには感謝しているから、復讐する理由がないんだ。
私はリトライと言ってる。そう、自分へのさ。

経験から、単独のバイクでは燃料、水、物資など、不可能なことがわかったので、次は4WDにすることにした。
悪路の旅をするのに、走破性に優れる乗り物は何か。私は深く考えたよ。

ちょっと考えると、それはタイヤでは無いことがわかる。
そう、キャタピラだ。
鉱山で使うヘビィ・マシン(重機)やアーミーの乗り物を見れば理解は簡単だよね。

日本でもクロウラーっていう、車のタイヤと交換して使うキャタピラが、スキー場で使われている。でもそれは、アウトバック・ツーリングには使えない。

たとえば走破性を上げたいのなら、タイヤを大きなものにリプレイスすればいい。
でも、それを回せる大きなエンジン・パワーが必要になるし、ディファレンシャル・ギアやプロペラシャフト、トランスミッションやトランスファー、クラッチのパワー・トレインも強くしなければ、どこかが壊れてしまう。

外国で旅する時は、壊れた部品がすぐに手に入らなくてはいけないけど、旅はレースじゃないからね。ひとりでサポートがない私に、それは不可能だった。

個人で持てる車でも、メルセデスのトラックとか、パーソナルでも手に入る軍用車とか、走破性の高い車は多いよ。でも私は、普段のデイリー・ユースしている自分の車でやりたかったんだ。

そう考えると、バランスよく、もともとストロングに作られている車がいい。
私は金持ちじゃないし、ランニングコストもあるから、デイリー・ユース出来なかったり、値段が高い車はダメだ。

どれを選んだらいいかがわからなかったので、詳しい人に意見を求めた。

当時、私は車の知識はなくて、4WD=JEEPだった。でもJEEPは頑丈で走破性が高いんだけど、カーゴは小さくて物資はたくさん積めないから、サポートが必要になる。

”20年後にオーストラリアの砂漠を旅したい。ベストチョイスはどんな車か?”
4WDに詳しい人へアドバイスを求めた。

”オーストラリアには古くからTOYOTAが入っているから、部品調達や整備に有利だ。”
”日本製の車は壊れないから、圧倒的な信頼を得ている。
4WDはワールド・ワイドとストロングさで選ぶと、ランドクルーザーしかない。”

”ランクルにはいくつかモデルがある。車軸のバネが、板バネのやつを選べ。
壊れにくいし、走れなくなっても引っ叩けば、動くようにはなる可能性が高い。乗りゃあわかるよ。”
彼はそうアドバイスをくれた。

私は自分でも調べた。
当時のパリ・ダカールラリーの無改造クラスでは、そのランクルが上位3位を独占していた。
非力で遅いけど頑丈だから、長距離のラリー・レイドでは、速い車がトラブルでドロップ・アウトしていった後に、結果として最後まで残るんだね。
そうだね。よく知ってるね。日本の”ウサギとカメの話”に似ているね。
まさに私の旅にピッタリだった。

それでね、私は日本で手に入る、リーフ・スプリング(板バネ)の、そのランクルを買った。
その車で4WDの練習と、旅の準備をするためさ。

2000kmを無給油で走る必要があったから、長距離をノー・サプライ(無補給)で走れるようにするために、レース用のエクストラ燃料タンクは、どう積めばいいのか。そんな事を考えていた。
日本ではそんな物は必要ないから、私はファニー(変わり者)扱いされたよ。

7年間乗った時、日本のガバメント・ガス・コントロール・ルール(政府の排ガス規制)の法律が変わって、私の住んでいる場所でその車は、走れなくなってしまった。

でも私は、走ることが出来ない車をキープしている余裕はなかったよ。ベストの車だったのに。
次の車はどれにすればいいのか迷っていた時、仲間が教えてくれたんだ。

”同じタイプのランクルで、エクスポート・モデル(輸出仕様)に、トゥループ・キャリア(兵員輸送車)という名の、燃料タンクが2個ついて、さらにカーゴ(荷台)にドラム缶がまるごと積めるような、ストロング(頑丈)なランクルがあるらしいぜ。”

私は次は、その車にしようと考えた。
日本にもこの車はエクスポート・リターン(逆輸入)で入ってるよ。オーストラリアやアフリカ、南米、中東のようにワーク・ホースではなく、数は少ないけど、マニアのスペシャリティ・カーとして存在する。
日本はオーストラリアより車は安いが、このランクルは高いよ。ココと同じくらいだね。
私はその車を買った。60ヶ月のクレジットでね。家じゃないゾ、車に5年のクレジットだ。(笑)
この旅に必要だったからさ。

ぺトロール(ガソリン)・エンジンのモデルだった。ハイパワーでサイレントで、最高だったよ。
今回も、その車を持ってくるつもりだったんだ。ただ、ロング・ディスタンス(長距離走行)では、少しばかり食いしんぼうだった。

ああ、そうだね。輸送コストもあるし、同じクルマをオーストラリアで買ったほうが、ずっとチープ(安価)だよ。

私はアウトバックをひとりで旅するから、ウォーター・タンクやウインチ、車に多くのスペシャル・ギアをつける必要があったし、グループ・ツーリングでは分担して持つ装備や、数台いれば必要が無い装備も、ひとりでぜんぶ持つ。
出発前、リアにウインチを載せてるところ。
こういうのは1台でないなら必要ない

それらを渡航後に短期で装備するのは、時間的に難しかったし、私が車のメンテナンスやギア(道具)にも、扱いに慣れている必要があった。

私はモーター・バイクは走らせられたけど、4WDの事は何も知らなかったからね。
4WDの扱い方、スタックした時のリカバリーやレスキュー、メンテナンスや修理も勉強したかった。

それに、コンディションがわからない中古車や道具に自分の命を賭けることは、私には出来なかったよ。

3年前にレンタカーでオーストラリアを走ったことは話したよね?そう、私自身のテストだった。
その時に使った車が、ディーゼル・エンジンだったんだ。
パワーはぺトロールに比べると非力だったけど、低いエンジン回転の大きなトルクや、同じ量の燃料での航続距離が長いことに驚いた。エクストラ燃料を持つ量を、少なくてすむからね。
ディーゼル・エンジンにはスパーク・プラグがないから、エンジン・トラブルが起きにくいのもメリットさ。

いや、レンタカーはアウトバックのリモート・エリアをを走るとき、たくさんの立入り制限があるから、今回の旅には使えないんだ。壊れたり、修理が必要の時にレスキューやリペアが不可能だからね。

ディーゼル・エンジンが気になっていたとき、偶然に仲間が同じ車のディーゼル・モデルを手放すことになって、私が引き継いだ。
私が乗っていたぺトロール・モデルは、別の友達が大切に乗ってくれてる。

この選択は、今回の旅ではベスト・チョイスだったよ。


ミッシェル、これが今あなたが乗ってる、この車を選ぶまでのストーリーなんだ。







私は準備期間中、「オーストラリアをランクルで長距離の旅した人がいるけど、足回りやエンジン内部も細かい砂の影響を受け、元通りに出来ないくらいダメージを受けて、結局ボロボロで廃車にしたらしいよ。」
そういう話をいくつか聞きました。

ホワイトシャーク号も、そうなっちゃうのかしら。こええ。

でも道中、延長線上に,深刻なものがあるトラブルは幾つかありましたが、走行不能に陥るような事はなく、結果として壊れたのは、自分がつけた部品だけ。(爆笑)


帰還したいま、私が経験からいえる事は、

「アウトバックでの37000kmぐらいの旅ならランクルは、ぜえんぜんへいき!」(爆笑)

この10倍くらいは無難にイケそうです。
みなさん、ランドクルーザーは丈夫ですよ。



2014年5月4日日曜日

20140301・シッピングで紛失(盗難?)されたもの



今後出発する人もココを見ているので、参考のために書きますね。

私は誰かを疑うのは好きではないので、確証がない事を書きたくはないんですが、帰国時の紛失があまりにも悪質だったので、ここではあえて盗難という言葉を使います。

車にはJAFでカルネを作る時に手続きを経た上で、インナーカーゴ(車載荷物)としてパーソナル・アイテム(個人の荷物)とスペアパーツ(予備部品)を乗せて送ることが出来ます。

でも、もともとシッパー(海運業者)からはシッピングでの紛失に関しては、一切の保障はありません。

本来であれば別送でコンテナ積みがよかったのですが、輸送コストを下げたかったのと、手続きが煩雑だったので、リスクを承知でインナーカーゴを選びました。

これから話すのはそこで起きた話です。


出発前のハンドツール類・この他にもたくさんあった

往路でなくなったもの

事前に可能性を聞いてはいたんですが、ハンドツール類の一部が紛失しました。

・スパナセット、片目片口5.5~19(ロールケースごと紛失)
・ショートスパナセット、10~17片目片口
・スパナセット、一部、両目8~25(新しいもの紛失、使い込んだ物は残ってた、抜き取り)
・ソケットレンチ3/8一部、10~25、コマ、ユニバーサルジョイント、ラチエットハンドル、エクステンション数種
・ソケットレンチ1/4全部、5.5~14、コマ、ラチエットハンドル、エクステンション、ユニバーサルジョイント)
・ビットレンチ一式、コマ、ラチエットハンドル
・アルミパイプレンチ大・小
・六角棒セット
・カッター
・日本製のコンベックスルール
・日本製のPOSCAサインペン
・ハサミ
・カメラの三脚
・スナップオン、ナイフとペンライトのセット
・日本で買ったARBの保温マグカップ(まだ新しかった)
・ガスボンベ式のハンダゴテ一式
・折り畳み携帯ノコギリ

・助手席にヘッドレストモニターが付いてるんですが、必死こいて外そうとした形跡あり→若干壊れてた←もともと壊れてるので、持ってってくれてよかったのに(笑)

・荷物を全て降ろして床のカーペットも剥がした形跡あり←税関の検閲か泥棒かは不明。

・見た目で新しい物や、スナップオンの有名ブランドの物が紛失
・バラして入れておいたものは欠品なし(例:スナップオンのハンドライトは本体、電池ケース、フタをバラにして別々のバッグに入れといた)

幸いなのは、砂用のランドアンカーとか、自分で苦労して作ったものの紛失がなかった事です。
盗難は現地でお金を出せば買えるものだけだったので、まだ気楽でした。

往きのシッピングで、前回25年前の旅にも使ったスナップオンのラチエットハンドルがなくなったり、最も残念だったのは、息子がお小遣いで100円ショップで買ってくれた小さなホウキを紛失したことでした(笑)



復路でなくなったもの

帰りの通関は空港近くの税関で、コンさんと私が済ませたので、盗難は港の保税ヤードに入ってから起きてます。
日本での保税ヤードは防犯カメラもあるし、誰がやったかすぐわかっちゃうので、こういう事はまず起きませんね。
輸送船の中に積込まれてからは、IDを持ったごく限られた船員か荷役従業者しか出入り出来ませんから、ヤードでの可能性が高いように思います。

ただし、帰りの私の船は一ヵ月半と長期で、他の港でも数日づつ何度も停泊しているので、シドニーで起きたとは言いきれません。

どうせ無くなっちゃう荷物なんですから、誰かにあげてきちゃった方がよかった。
スペア燃料のジェリ缶や、砂漠で使うサンドポールとか日本では絶対使わないものは、途中で差し上げてきちゃったんだけどね。
私はモノにはこだわらないので、「それください。」と言われればあげちゃったと思うんですが、悪意によって持ち去られた事がとても残念です。

帰りは往きより悪質で、ツールバッグごと無くなったり、フロントシートに装備してあった消火器、Aピラーにつけてあった、マグネットにバネがついてるペンホルダーなどの小物まで無くなっていました。

盗難を予測して、ソケットやビットはすべてバラバラにしてバッグに分散しておいたので、それに対する腹いせもあったのかも知れません。

考えてみれば往きとは違って、もう車は国外に出るのですから、盗んでも刑事告発される可能性は低いと思っただろうし、往路よりダイナミックにカッパラって行ったのかもしれません。(笑)

・ドライバー+、-4本、スタッビ他
・ハンマー・中・小
・ウォーターポンププライヤー
・プライヤー中・小
・ラジオペンチ中・小
・ニッパー大・中
・タイヤレバー
・逆タップ
・弓ノコ、替刃
・双眼鏡(現地購入)
・乾電池(たくさん日本から持ってったのですが、ヘッドライトなんかはLEDなので数本しか消耗しなかった←必要なかった)
・チェンソー(「プリティ」という名前までつけてたのに残念。コレは往きで無事だったので安心して、帰りは燃料入れっぱなしだった)
ありし日のプリティちゃん。アウトバックでのブッシュキャンプ・焚火では毎日のように活躍していた。


・ARBコンプレッサセットの中のエアホース、エアチャック、ブローガン(盗難防止のために本体に「壊れてる、動かない」と書き、ヒューズを抜いて別のバッグに隠しておいた・でも箱の中の付属品が盗られた)
・9.5エアインパクトレンチ、コマ
・小分けして携行していたグリス、モリブデングリス

往きで盗まれて、現地でまた買って盗まれたもの

・スパナセット、全数、両口
・スパナセット、全数、両目
・ショートスパナセット、全数、片目片口
・モンキースパナ、250mm、350mm
・ソケットレンチ3/8全部、コマ、ユニバーサルジョイント、ラチエットハンドル、エクステンション数種、ホルダー
・ソケットレンチ1/4全部、コマ、ラチエットハンドル、エクステンション、ユニバーサルジョイント、ホルダー
・板ラチエットビットドライバー、ハンドル、ビットセット
・六角棒セット、ホルダー
・カッター
・ハサミ
・パイプレンチ大・小
・カメラ用三脚
・折り畳み携帯ノコギリ

ハンドツール類だけでバッグ3つもあったのに、結局着いたのはコレだけ。(笑)


アフリカなんかでは、車ごとどっか行っちゃうことがある。と聞きますので、車が戻ってきただけでもOKとしましょう(爆笑)

でもね、私はホトケのよっちゃんですからあまりこういう事は考えないんですが、このまま野放しは本人の為にならないので、ここまで調子にのってる不届き者には、お仕置きをしなくてはいけません。

どなたか必殺仕置き人をご存知でしたらご紹介ください。五両だします。外国も行ってくれんのかな(爆笑)


補足
・ハイリフトジャッキは最初からサビだらけの使いこんだものだったので無事
・ウインチングにつかうスリングベルト、シャックル、Sフック、ワイヤーロープ、スナッチブロックの類は欠品なし→盗む人は4WD乗りではない(笑)
・キャンプ道具とか寝袋とか、もともと適当に使いこんで小汚なかったので往復欠品なし
・現地で買ったギアレスレンチロールセットは無事(10,12,14,17とかよく使うサイズを、盗られないように車のジャッキ収納スペースに見えないように落としておいた。車の内張りの中もありかも。←解釈により密輸になる可能性があるので要注意・笑)
・冷蔵庫とか大きな物は無事。

・ハンダゴテとか100Vの日本の電気機器は、240Vの現地では使えない。
・無線関係の機器はすべて欠品なし←素人では何に使うかわからない。
・無線機本体は国別にバンドプランが違うので、使えない
・日本のナビゲーションも地図が違うので盗んでも使えない←GPSガーミンはホルダーはウインドにつけっ放しで、本体だけ飛行機で運んだ

まとめ
・いっけん薄汚いものは無事。
・いっけん壊れているように見せかけたものは無事。←修理が必要な物は盗まない
・ネジまでバラバラにしていれておいた物は無事。←面倒なものは盗まない
・重い物や大きな物は無事。←人目についてヤードから持ち出しできない?


これから発つ方へのアドバイスとしては、他の港ではわかりませんが、シドニー・ポートケンブラ港で発着する車に関しては、「車載の荷物は盗まれますよ!」

なくなったら困るものは可能なら飛行機で手持ち、または、別送でコンテナ積みを強くお勧めします。(コンテナなら無くならない)

・または、高価でない物は現地調達して、帰国時にお礼に誰かにあげるのをお勧めします。

・帰国時に空港の税関で、「別送品・携行品申告書」というのがもらえるんですが、税関で「車には使えないと思いますよ。」と言われたんですが、私は念のためにもらっときました(20万円まで有効)
こういうやつ。
→コレが車日本での通関時に、現地で買い、持ち帰ったインナーカーゴの通関に適用され、結果として無税になったのでとても助かった←もらっといた方がいいですよ。

車の帰国時に港の税関で、ちゃんと車を日本にもち帰ってきた事を証明するために、カルネに「所在地証明」というハンコをもらわなければいけないんですが、私の場合はあまりに携行品リストと違う(紛失が多い)ので、ハンコは「CAR ONLY」しか発行してもらえませんでした。















ココからはこのブログを見ている方々へ、ついでのお願いなんですが・・・。

最近、高校生の息子がバイクに興味を持ちはじめました。アルバイトをして、空冷の並列4気筒に乗るんだそうです。(笑)

バーチャルな世界で遊ぶ子供が多い中で、こういうアナログな遊びはたいへんに結構である。と私は考えます。
私は帰国後から、修理やメンテナンスを教えているのですが。。。
ご存知のように愛用だった工具、盗られちゃったので上の画像のしか残ってないっす。。。(苦笑)

私の知人のバイクを勤労奉仕で、メンテしてるところ。
彼は、お下がりのツナギ着て、ヤル気マンマンであります。

それで、もしお古の工具類が眠っていましたら、どうぞ私たちにください(笑)
使えればOKであります。お心当たりの方には、どうぞこちらからお待ちしております。



 今回のきっかけの旅、私が24年前にシドニーで買い、アウトバックを旅して、持って帰ってきたバイクが、知人に譲って乗ってくれてたんですが、今回の帰国後に縁あって戻ってきました。
1990
これはエンジンや車体全域のOHが必要なので、それらを一緒に教えたのちに、彼に引き継ごうと思います。

2014

2014年4月28日月曜日

20140301帰国後2ヶ月経過ごろのはなし・車帰還

・・・それから更に時間は流れて車とも再会しました。
出したのと同じ川崎港の保管ヤード。
車内に積んでいた荷物が往きよりもたくさん盗まれちゃったんですが、車は無事で2ヶ月半ぶり。
やっぱ、いとおしいですね。

この旅で涙がにじんだのは2回。シドニーで受取った時と、この時。
嬉しいのと、「いや~。たいへんだった~~~。」(笑)




でも、やっぱ終わった感じがしないんです。
・・・ウソはつけないんでこれから、ちょっとカッコ悪い話をします。



普通に働けるし人とも接せられるけど、夜ひとりになると燃え尽きた灰みたいになって、明日のジョーみたい。ロスですね。(笑)

この頃は誰と会う気もせずに、考えごとをしながら深夜見たくもないTV画面をずっと眺める。

「心の病になっちまったかな。やべえなぁ。」そんな感じ。


こんなハズじゃねぇ。なぜ落込むのかがわからねぇ。
つらい環境であっても、あんなに楽しかったのに、なんでなんだろ。
この、せつなくやるせない気持ちは、いったい何なんだ。



おれは、はるか昔に立てた目標を目指し、ターゲットを絞り込み、あきらめずに進み続け、そして到達し、完了した。

少しゆるい場面はあったけど、いつも後悔がないように自分をギリギリの所に置いて、やりたい事を取りこぼさないように、後悔は残さないように、ガタガタ道も、暑い所も、夜どおしでも走り続けた。

もともと大した事は出来ないけど、いつもひとりぼっちで自分の限界にチャレンジし、そして乗り越えてきた。


本来なら、やりきった感、満足感、充足感に満ち溢れていて当然のはずだし、それを想像していた。

けれども終わった今、あそこはこうした方が良かったな。とか、もうちょっとココまでやっとけばよかったな。とか、後悔のようなものまでをも感じる。

オマケに、「おれが想い描いていた旅は、いつもあんなホコリまみれや泥んこじゃなくって、もうちょっとスマートでカッコいいはずだったんだけどな~。」そんな事も。

それに私は、オーストラリアの人々の日常生活、仕事は基本的に時間外勤務はなく、サービス業以外は土日完全休み。
それでいて年に3~4週間の休暇を取り家族や友だちと長期の旅行を楽しみ、きちんと税金を払っていれば医療費は無料、など政府からの保障は厚い。

そういう日本にはないヒューマニズム、人間的だな。と思える暮らしを、まざまざと見てきてしまったので、「この先、ずっとこの日本で暮らすのか。」そういうネガティブな考えも。


出発まえのエネルギッシュでスパルタンなおれは、どこへ行ってしまったんだ。
このていたらくは、いったいなんなんだ。


私は不器用で、ひとつの事を理解出来ないと次にはゆけないタチです。
自分の中でそんなことをハッキリさせたくて、この頃ずっとそんな事を考えていました。

www.youtube.com/embed/uM69-di7gPA?rel=0







それで数ヶ月考えて、私が出した答えはこう。

まだつい最近のことなのに、下した判断に後悔を感じるのは、私はこの旅のあいだにも経験を積み、進化し、強くなり、あの時には見えなかった正確な判断が、今からは見えるから。


そして私が感じていた、せつなくやるせない感情は、文字にすると、

むなしさ、空しさ、虚しさ。


では今、なぜそんな感情を持つのか。

私の今回の旅というものは、今ある日常から抜け出し、束の間の一時期だけ別の環境に出掛け、体を張り、ハメを外し、とっぴょうしもない事をした。

そして自分がいなくてもなにも変わらない、もと通りの安定した生活が保証されている場所に、甘え、期待し、戻って来て、しっぽりとまた収まる。

そこでは旅行中に起きた出来事を別にすれば、自分の人生や運命の上では、なんの責任も取らない。

準備中、いろいろなハードルを乗り越え、大変だったけど、振り返るとそれを楽しく感じた。
これはそういう事で、たとえば私がした事が冒険と呼ぶものだったとしても、きっと同じことでしょう。
だから、終わればとてもむなしいから、またやる。


では今回の旅で、自分の人生での責任や運命を背負いながら旅していた人なんかいたのか?と振り返れば、それはニュージーランド人のヒッチハイカー、ミッシェルでしょう。

私は彼女に、社会逃亡者だの浮浪者だのゴミババアだの、だいぶ失礼な事をいいました。
(ミッシェルとの話はリクエストを沢山もらっていて、このへんはまた追記しますね。)


彼女は、昔ながらのアボリジニのライフスタイルを尊敬し、誰かに貰ったような服を着て、ゴミみたいな荷物を持ちながらも、そのスタイルを嘲笑する人たちに決して屈せず、自分を貫き、根無し草のようにアウトバックをさまよっていました。
なおかつしっかりと、自分に起きるであろう未来の出来事を背負いながら、旅していた。



そんなふうに考えると、いま私たちが生きている人生そのものが、本当の旅や冒険なのかもしれません。



またこの頃人づてに、4WDのロシアン・ラリーのオーガナイザーの方と知合いました。

私はこの辺の帰国後の戸惑いを話すと、「ロシアン・ラリーはあなたの旅より期間は短いけど、やっぱり終わるとしばらくは燃え尽きた灰みたいになってるよ(笑)」


まだココにはアップしていない話ですが、途中に出会ったメルボルンのクリスともメールでやりとりしてます。
「Yoshi,日常生活に戻る事が出来なくて、苦労してるんだよ・・・。」
彼は8ヶ月前に6年半、36万kmの世界一周旅行から帰ってきました。
ですから、私よりもっとリハビリの時間は必要なのでしょう。


「・・・やっぱそうなんだ・・・。」

私は人と同じ事がよしとはしませんが、なんだか浮かばれたような気がします♪



20140118 帰国後1ヵ月経過のころのはなし・マークさん・ジェラートさん来訪・無線APRS

年末に帰国し、当然ながら翌日から忙しく働き・・・。
長年続けている仕事なので、体は動く。

私の職場は工場なんですが、作業場の私の工具棚の備品まで出発の日そのまま。
・・・あの私のファンタスティックな体験は、本当にあったのだろうか。
あれは夢だったのか?でもヒゲ生えてるしなぁ。

一見、何事もなく旅行前の生活に戻ったようにはみえる・・・。
でもね、・・・逆浦島太郎。みたいな感じに戸惑ってる。(笑)


師走の街に、間髪をいれずにジングルベルの音を聴き・・・。

喜びの歌を聴き・・・。

年が替わって琴の音を聴き・・・。

年賀状を下さった方々には、返事も出さずに大変失礼してしまいました・・・。

出発から伸ばしっぱなしだったヒゲは、日本での評判はよろしくない。
現地ではもっとおかしいのがたくさんいるから、そんなにハミ出てなかったんだけどね。


それでは。と、正月休みに黒く染めれば、アラブゲリラみたいだ。とか、白い方がよかった。とか言われ・・・
コレは職場のわたし。自分でいうのもナンですが、やっぱ相当おかしいですよね。(笑)


この時だけ「いいネ!」と言われました(爆笑)









話が変わります。
カメラマンの難波さんを仲介に、「来年ランクルでオーストラリアを2ヶ月間、2万kmの旅行を計画している人たちがいる。話を聞きたい。」そういう方々から連絡をもらいました。
私は現地の情報がなくてとても困ったので、知っていることや体験はお伝えし、協力したいと考えます。
それで、そのKさんとお仲間のみなさんに会いに行った。

たまたまそこに遊びに来ていたのが、彼、マークさん。


まずい事にカメラの電池切れで画像は何枚もないんですけどね(笑)




彼はパリからロシア経由でユーラシア大陸を渡り、カムチャッカから日本に来てからまた帰る。往復2年間。
帰りはどんなルートを通るのか聞くと、バイカル湖を通って行くと言っていました。
今時期だと、普通に-30℃とかあるんですよ(笑)


車の装備も、燃料が凍らないようにするためのヒーターや、とてつもなく大きな容量のバッテリーシステム、400L近い燃料タンク、スパイクタイヤなど、寒冷地特有の仕様が装備されていました。

マークさんのHP

帰国した後も、そんなつながりがどんどん増えて行ってます。







また話が変わります。ジェラートさん来日。
今回、私の事をGoogle MAPで見ていてくれた方は多いと思います。
あれは短波無線・HFのAPRSという遊び。

簡単に表すとこんな感じ。

私の車から一分毎に無線機で信号を発射
今回の電波は短波だから、地面と雲に反射されながら何千キロも飛ぶ
各地にある、i-ゲート局というアマチュア無線の、ボランティア基地局が受信
i-ゲート局はネットにつながっていて、受信と同時に情報を流してくれる
みんながGoogle MAPから簡単に探せる

無線機器のスイッチを入れとくだけで、応援して下さる方々へ、自分の現在位置を報告する事ができる。Googleストリートでだいたいの風景だってわかる。
これから自動車で世界を旅する方は、現地にi-Gateがある国では、ぜひ装備すると面白いと思いますよ。

このころ、シドニーから仲間が来日しました。彼はシドニーの無線i-ゲート局。

旅行中彼は、私の無線機の設定ミスやアンテナ折れの時など、ネットから親切にサポートしてくれ、特にケアンズからパースまでの北部~西部を旅していた時はずっとアンテナに不具合が発生していたので、オーストラリアではシドニーの彼しか設定していない周波数を使って、ずっと皆さんに位置情報を送っていました。

それでシドニー帰還時、直接にお礼を言いたくて訪問したんですが、運悪く会えなかった。
コレは帰着時一週間の、シドニーでの私の走行軌跡。
(余裕がなく、この画像をPCに保存していなかったんですが、師匠が詳細に取っといてくれました。)

シドニーでは忙しく、あちこち走り回ってたんですが、彼の家にも行ってます。

ジェラートさんと友人のケビンさん。日本を旅行しに来ました。
それで、嬉しいことに連絡を下さった。TOKYOにいる時間は僅かだったんですか、シドニーに帰ってしてしまうと簡単には会えません。
それで、滞在してる所は聞いていたので、イチバチで「突撃となりの晩ごはん」みたいに会いに行きました。
当然ながら初対面。


彼らが滞在しているホテルの近くのイザカヤ・バーで歓談してるところ。(笑)
仲よさそうに写ってますが、私は英語はろくに話せません(爆笑)
でもね、人間って言葉が通じなくても会話は出来るんですよ。


訪問を快く受け入れてくれました。会えるかわからないのに、hiro師匠も静岡から駆けつけて下さいました。彼と師匠は無線のベテランなので、無線の話で盛り上がってます。



今は携帯電話やネットがあるので、無線ってあんまり必要ではありませんが、中継局がない広いところでは非常に有効な通信手段です。

コレは北西部、ギブリバーロードを旅していた時1週間の軌跡。
右下シドニーのVK2IOが彼のi-Gateステーションですね。
こんな所からHFの電波はシドニーにしかないi-ゲートまで届いてたんですよ。



オーストラリアでのアウトバックでは、いまは衛星携帯電話や非常用ビーコンがありますが通信コストは決して安くはないので、外部との連絡には普通にHF無線は使われてます。4WD専用のネットワークもありますし、他にも地域や用途別に周波数も決まってます。

日本での最近の話では、震災が起きて通信手段が壊滅してしまった時、最初に外部との連絡がとれたのは自衛隊のヘリコプターから、いまは現役を引退していたHF無線だった。と聞きました。

みなさん、無線って、特にHF(短波)って面白いですよ。








沢木耕太郎さんの「深夜特急」という紀行小説を読んだ事がありますか。
若者が、香港からユーラシア大陸を渡り、ロンドンまで旅する話。

若かった頃、私はこのスタイルの同年代の旅人と出会い、いまでもつながりがある人もいます。
当然のようにみんな、長期の休暇などは取れる訳もなく、みんな自分の未来に責任を持つ。と決めたうえで資金を作り、仕事を辞めて旅に出てゆきました。

・・・それで、帰国するとまず居場所と職探しからはじめる。
いま、私はその辺がないので、とても恵まれた環境ではあります。

それでも、出発前と変わらない居慣れた場所に帰ってきたのに、なにかに戸惑っている自分がいる・・・。
この終わった感がない変なかんじは、なんでなんだろ・・・。

・・・そうか。ずっと一緒にあった車がないからだ!


私は万が一、車が盗難されたりすると、旅の続き、パスポートなど書類の手続き、関税のペナルティなど、一気に難問が起きるので、大きなシティ以外はいつも車が見えるところにいました。


・・・という訳で、車の帰還を旅の終わり。と定義づけることにしました。

2014年2月13日木曜日

20140213・復活して再開しようとしたら、なぜか投稿できません・・・原因究明中(滝汗)

3/15 解決しました。
投稿の題字は書けるのだけれど、文が書けなかった。
他のPCからは表示できたのだけれど、なぜか私のPCからはダメ。

旅行中柔らかいケースの中に入れてはいたけれど、
いつも激しい振動の中にあったので、どこかおかしくなっているのでしょう。(笑)

これは帰国後1ヶ月後位には解決していたのですが、
年度末のシゴト超多忙でPCからは少し遠ざかっていました。

もう帰国から3ヶ月近く経っちゃったんだし、・・・あとはいいんじゃね?なんてかすかに思ったりして(笑)
最後まで書いてないけど、みんな帰国した事は知ってるんだし、ぼちぼち闇に消し去っちゃおっかなぁ・・・。(笑)


私のこのブログはGoogleのものなんですね。
これを選んだ理由は、トランスレート(翻訳)機能があって、結構いい加減な翻訳なんですが、
ボタンを押すと外国語でも表示は出来るから、もし外国人の友達が出来ても、ある程度は理解できる。
そんな理由からでした。

そのブログの私しか見れない管理画面から、どこの国からアクセスがあるのかを見ることが出来るんです。
ひさびさにそれを見て驚きました。
何ヶ月も凍っているのに、いまでも1日に10人くらい覗きに来てくれています。

日本、オーストラリア、アメリカ、アラスカ、ロシア、ドイツ、大韓民国、イギリス、中国、インドネシア、ボリビア。

日本とオーストラリアはわかるんですが、他は誰が見くれてるんだろ(汗)

私はブログにアップしている他にも、沢山の人と出会ったので、
あの後オーストラリアから散っていったり、世界の旅を続けている人が、きっと見てくれているのでしょう。

見てくれている人がいる以上、完結させなくてはいけません。
アクセスがだいぶ少なくなったぶん、いままでより少し突っ込んだ話もできるかな?(笑)

日付が前後しちゃうんですが、私もわからなくなっちゃうんで、古いものも以降に書くことにします。